人気ブログランキング | 話題のタグを見る

エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム

今週土曜日はIndian American(インド系アメリカ人)のRくんと一緒にエリス島移民博物館に行ってきました。
Bowling Greenの駅を降りてハドソン川沿いにあるチケットオフィスでリバティー島とエリス島両方に訪れることができるチケットを購入しました。


まずは自由の女神をフェリーから眺めます。
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_23595661.jpg
リバティー島に停泊したあと、今回の目的地エリス島に到着です。

エリス島はエリス島移民博物館があります。
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_014737.jpgここは1892年から1924年までアメリカに移民で来た人が移民手続きを行う場所でした。1200万人以上の人たちがここを通じてアメリカに入国し、現在1億人以上のアメリカ人の祖先を辿ると、ここで移民手続きをしてアメリカ各地に散っていったと言われています。この建物は1980年代の改修後、エリス島移民博物館として1990年9月に開館しました。ここではエリス島のかつての役割を後世に伝えるだけではなく、4世紀に渡るアメリカ移民政策の博物館としても機能しています。

エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_0392148.jpgまずはエントランス右手にあるカフェでお茶をしました。ミネラルウォーターの背面は自由の女神が描かれていました。ペーパーナプキンも自由の女神とエリス島博物館オリジナルです。この2つはお土産にいいかもしれませんね!
博物館内部をご紹介します。
1550年からエリス島には大西洋を渡りヨーロッパ、アフリカから、はたまたアジアからは太平洋をわたり、大陸を横断して人々が押し寄せました。エリス島には多くの移民たちの荷物が届くのですが、混乱を極めており、当時は荷物が持ち主に無事に届くことは稀だったようです。当時の写真です。エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_044343.jpgエリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_0445350.jpg
どうしてアメリカに世界各国から人々が押し寄せたのかというと、大きく分けて2つあります。①「機会を求めて」②「意に反して」です。

まず①についてですが、18世紀ヨーロッパは産業革命が起こり、工場制機械工業が導入され、これに伴い産業および社会構造も変革しました。
これで大きな打撃を受けたのは平民で、アイルランドでは地価が高騰し平民が住める状態ではなくなり、イギリスやドイツでは職人たちが機械化によって職を失いました。そういった人々が新しい機会を求めてアメリカ大陸を目指しました。
アメリカに到着した移民たちは、ニューヨークでは安アパートを数家族で共同して借り、寄り添って生活していました。
(以下2つは今年3月に訪れたテナメントミュージアムです。当時移民たちが住んでいた小さいアパートをそのままミュージアムにし、後世に移民たちの厳しい生活を伝えています。くわしくはこちらの日記をご覧下さい。)
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_136555.jpgエリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_137343.jpg

そして時代は変わりますが、1850年代になってからは特に中国からの移民が増えました。その理由は中国政府による圧政や税金政策、さらには飽和化した国内市場に限界を感じた中国人たちが、ゴールドラッシュを求め、アメリカのカリフォルニアにやってきました。エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_1245542.jpg妻子を残して一時的な労働者としてやってくる人もいて、そういう人たちはアメリカ人の経営者に安い賃金労働者として歓迎されていました。彼らは鉄道を作り、鉱山を発掘して、成功した人はビジネスを始めました。西海岸では中国人が勢力を増してことに対して脅威に思うアメリカ人が増えて、共に差別意識も強くなってきました。1882年にアメリカ政府は「Chinese Exclusion Act」を施行し、中国人の移民を制限しました。

②の「意に反して」アメリカに来た人々とは奴隷達のことを指します。
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_1295567.jpg17世紀から19世紀初頭までアメリカに上陸した人達の半分は自分の意に反してアフリカから連れてこられた人々です。人類史上最も大きい人種の移動は奴隷貿易だそうです。ゲルマン民族大移動ではないんですね。
奴隷貿易はヨーロッパ人の植民者がアフリカで原住民を「捕獲」して左のような奴隷船に乗せてアメリカ大陸に連れて来ました。同じ人間としてアフリカ人を「物」のように扱っていたことに対して、本当に許せない思いがしますが、当時はこれが社会通念としてまかり通っていたんですね。

エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_21912.jpg連れてこられたアフリカ人は左の写真のように「奴隷市」にかけられ、主人に買われていかれました。そこではプランテーションで重労働をしたり、召使として主人に仕えていました。また中南米諸国に売られることもあったそうで、そこでは輸出するためにタバコ、綿花、砂糖、米などを作っていました。
彼らの労働はアメリカ、そしてヨーロッパ諸国に搾取され、これらの国の大きな発展を支えていました。


さて、エリス島博物館は①の「機会を求めて」アメリカにきた人たちに設けられていた場所なので、話は元に戻ります。

アメリカに到着した人々は下記の図のようなルートでアメリカ国内に散って行ったそうです。
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_27125.jpg

博物館内のオフィスでは、アメリカ人が自分たちのルーツを調べられるデータベースも充実していて、熱心に読みいっている人たちもいました。自分の祖先が○○人と●●人から来ているということがわかるそうです。
単一民族である日本人には、感覚的に理解するのが難しいですね。

さて博物館の2階は「Registry Room」となっており、移民手続きを行う場所でした。
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_2165040.jpg
エリス島で考えるアメリカ移民史とアメリカンドリーム_d0235123_2174521.png当時の様子はこんな感じでした。尋問を待つ列はフェンスで囲まれており、皆用意された椅子に座って自分の順番を待っていました。移民の10人に1人程は尋問に引っかかり、奥にある裁判所に連れて行かれて、移民裁判が即興で行われたそうです。


以上で博物館のご紹介は終わりとなります。

マンハッタンにフェリーで帰る時には、一緒に来た友達のRくんとアメリカンドリームについて語りました。
彼もインドから移民してきた人です。今回の博物館来訪にもってこいディスカッションかと思いました。
「アメリカンドリームって今でも存在するの?」
というのがテーマでしたが、私の意見は「No!」です。
アメリカに来て最も驚いたことは階級社会であるということです。裕福な家庭で生まれた人はずっと裕福なまま、そうではない家庭で生まれた人はなかなか自分の出自を変えることができないのです。アメリカ社会と比較していかに日本は平等な社会であるかということを実感しました。
アメリカはお金がなければまともなものも食べれなく、医療・教育さえも受けることができません。社会的流動性(Social Mobilityって英語を使ったのですが、果たして正しかったのかわからないです。。。)が極めて低いのです。
こんな中、アメリカンドリームで一発逆転をして成功するなんて、どうやったら出来るのでしょうか。
本当に1億人に1人くらいであるのかもしれないですが、「アメリカンドリーム」なんて名付けられるほど頻繁にあるわけではないです。

今回博物館に行って感じたのは、ここで紹介されていたアメリカ黎明期では一発逆転で大成功ということがよくあったのかもしれません。しかし発展し飽和化した現代では社会的階級制度がしっかり出来てしまい、階級によって分け与えられるチャンスの量と質が全く異なる気がします。

対して、Rくんの意見は「Yes!」でした。
彼曰く、「『アメリカンドリーム』についての定義は人ぞれぞれだけど、既にアメリカ人として生まれ育っている人は確かに厳しいかもしれない。でも他国から、特にアメリカより発展途上国である国から来た人にとっては、毎日がアメリカンドリームかもしれない。」ということでした。
私と「アメリカンドリーム」の起点が違う意見でしたが、インドで生まれ育ち、ケニアで中高時代を過ごしアメリカに来たRくんの経験値に基づいた意見だなと思いました。

経験豊かで歴史知識もあるRくんと博物館に一緒に行けて、とても勉強になる1日でした。

# by kanagourmet | 2012-08-27 01:39

ノー残業デー

今日は週の中日。
気分ものびのびになりがちなので、少しメリハリが必要と思って、いつもと変わったことがしたくなりました。
今朝起きて思いついたことは・・・

・自転車通勤
・勝手に自分でノー残業デー設定
・夜は自宅でBBQ
という3本立てです。

まずは、自転車通勤です。私の家から会社まで自転車で行けば40分ほどです。
自転車通勤が出来る日は決められていて、ラフな格好で出勤してもいい日、晴天の日、定時で帰ろうと思えば帰れる日の3つの条件が揃わないと難しいです。なかなかそんなタイミングは見つからなくて、結局3ヶ月に1回自転車通勤できるかできないかという具合です。
なので今日は貴重な機会です。

Park Aveを南下してMetlife Buildingまで一直線です。いつも電車で会社に行くのとは全然違う爽快感を味わえます。
ノー残業デー_d0235123_113255100.jpg
会社に近づいてきました。ノー残業デー_d0235123_11334045.jpg

自転車は会社のオフィスのストレージに預けるのですが、いつも見張り番のおじさんが怖いです・・・。
このストレージは5時半で閉まってしまい、それまでに自転車を取りに行かなければいけないのです。(そのため定時で上がれる日でないとダメなのです。)前回5時半きっかりに自転車を取りに行ったら、遅いと怒られて、おじさん曰く「5時半閉館というのは自分が帰宅する時間なので、その前に来てもらわないと困る!!」ということでした。
「早く帰ること」、「なるべく働かないようにすること」には徹底しているアメリカンなのでした。

それで私はいつものように9時から5時まで働いて、忙しく働いている皆を尻目に今日は定時で帰宅しました。
日系企業はニューヨークでも日本と同じ働き方をするので、皆よりも早く帰るときは何だか申し訳ない気分になってしまいます・・・。

そして5th Ave,セントラルパークを通過して、途中にあったお魚屋さんに立ち寄って買い物して帰宅しました。
ノー残業デー_d0235123_11371540.jpg
ノー残業デー_d0235123_11375936.jpg


帰宅後は隣人ちゃんと準備して、今日はマンションのルーフトップテラスでBBQしました。
ノー残業デー_d0235123_11392455.jpg

日が沈むのを見ながら、一緒にご飯食べて、今日の出来事を話し合うのでした。
明日はまた夜遅くまで頑張ります011.gif

# by kanagourmet | 2012-08-23 11:45

Veritas

久々にニューヨークレストラン日記です。
8月の初旬、東京から会社の先輩が私の家に遊びに来ていたので、とっておきディナーということで2人でVeritasに行ってきました。
Veritas_d0235123_1403365.jpg
ここはフレンチ風にアレンジされたアメリカ料理のレストランで、ミシュラン1つ星です。
ここは私のとっておきのニューヨークのレストランの1つなのですが、そもそもここを初めて知ったのは2年以上前ですが、米系コンサル会社Aに勤める日本人の友達が、「会社にいる日本人の中で最も人気のアメリカンレストランに一緒に行こう。」と誘ってくれたのがはじまりです。
それから私はこのレストランの味が大好きになり、時々恋しくなって今まで何回か訪れてきました。

VeritasはWine Loverにはたまらないレストランだと思います。
まず席に通されて驚くのは、英語辞書を彷彿させるような、とても厚いワインリストです。
ワインセレクションの多さが、このレストランの自慢の1つです。日本のレストランで飲むよりもずっとお得ですが、2ケタの値段のワインは珍しいです。
その為、「とっておき」の日にしか来れません。

まずはじめに先輩と2人でグラスのCuvee Angelineを飲みました。これが程よい滑らかなスパークリングで2人で感動でした。

私はStartにクラブサラダを頼みました。レモンジャムとルッコラが添えられています。
Veritas_d0235123_8261677.jpg
シャンパンに合うとてもライトな味でした。クラブサラダなのにパイ仕立てなんですね。

Followは珍しくラムにしました。そして付け合せのレンズ豆があまり好きではないので、夏野菜のソテーに代えていただきました。
Veritas_d0235123_8265630.jpg
ここで本当に驚いたのが、全体的な「あっさり感」です。ミネストローネのスープと共にサーブされているからか、ラム独特の匂いを感じさせず、お肉であるのに後味もすっきりです。柔らかく仕上がっていました。比較的ライトなブルゴーニュワインとともに食しました。

一つ残念なことを挙げるとすれば、私がこのレストランに初めて行ったときは、本当に静かでおいしいフレンチアメリカンと共に一緒に行った人との会話を楽しめる場所でした。
しかし、去年オーナーが変わったからかはわからないのですが、若干ざわざわしたレストランの雰囲気になってきているような気がしました。

ディナータイムの早い方に行けばそんなこともないのかもしれませんし、たまたまだったのかもしれません。
価格は1人$150程度ですので、ミシュラン1つ星のレストランであれば平均的な価格だと思います。
大衆的なレストランではなく、ワンランク上のレストランに行きたい気分の日にはとてもおすすめです。

この日記を書いていて、また近々ここに行きたくなりました。

# by kanagourmet | 2012-08-23 02:13

先輩から嬉しいお便り

突然ですが、話は11年ほど前に遡ります。
当時短大生だった私は、ゼミの同窓会に現役生として出席しました。
40人くらい先輩方が集まり、自分の仕事や結婚などのエピソードを含めながら、それぞれ自己紹介をしていくのですが、幼心にも「とても素敵だな、私もあんな風になりたいな」と思ったスピーチをされている方がいらっしゃいました。

時は流れ、場所はニューヨークに移ります。

ニューヨークに来て日に日に弱っていく私を見かねた、短大時代のゼミの先生が私を心配してくれて、同じゼミの先輩でニューヨーク在住の方を紹介してくださいました。

その方は何と旦那さんの転勤で8年間(!)ニューヨークで駐在員の奥様として住まれながらも、自分が日本にいたときに新卒から働いていた会社のニューヨーク支店で働いていました。
短大のゼミの先生からは「ニューヨーク生活だけではなくて、ニューヨークで働くことについてもあなたにたくさんのアドバイスをくれるでしょう。」というお言葉をいただいていました。

そして先輩がやっぱり私のことを心配してくれて、「一度うちに来て一緒に話しましょう。」といって下さり、初対面であるのに、アッパーウェストにある先輩のご自宅に行って、ご挨拶して私は驚きました。
11年前のゼミ会でスピーチをされていた、その方だったのです!!

先輩はそれからニューヨークで毎日仕事で悩んでいた私の相談に乗ってくれて、とても助けていただけました。
本当に今こうして自分が楽しく、自分らしく働けているのも、あの時先輩が色々アドバイスを下さったおかげだなと思います。

時々私の家か先輩のご自宅でお食事会を開いていたのが懐かしい思い出です。
私の短大の友達がニューヨークに来ていた時には、3人で同窓会を開きました。
私と友達の傑作ディナーです♪ あの時は本当に楽しかったなー♥
先輩から嬉しいお便り_d0235123_922576.jpg
こちらはアッパーウェストの素敵なエリアにあった先輩のご自宅付近です。
今も時々散歩して思い出しています。
先輩から嬉しいお便り_d0235123_9253944.jpg
先輩は南フランス料理が特にお得意で、素敵なお部屋で本当に美味しいお料理をご馳走になったのを覚えています。

昨日先輩から久しぶりにお便りをいただきました。
日本に9ヶ月前に帰国されて程なくして今度は投資顧問会社で働き始めた話が書かれていました。もちろん、もうすぐ3歳になる女の子の育児もしながらです。

私にはその大変さはまだわからないけれど、本当に立派だなと思います。

お便りには、先輩は私のブログを読んでくださっているみたいで、「女性が自立することはとっても大事なことだと思うし、自分の世界、生き甲斐を見つける事も大事なことだと思うのです。」と書かれていました。
さらに、そういう先輩の気持ちを大事にして応援されている旦那さんもいらして成り立つことだと思います。

先輩から嬉しいお便り_d0235123_1022316.jpg先輩とのご縁は私がニューヨークに来れたからこそ、出来たものです。
こういうご縁もこれからも大事にしていきたいと思いました。
こちらの写真は先輩が帰国される前の送別会を自宅で開いた時のものです。

# by kanagourmet | 2012-08-20 09:18

フラッパー文化体験とワインパーティー

昨日はいつもの友達たちと、「Jazz Age Lawn Party on Governors Island」に行ってきました。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_23285117.jpgこのイベントはガバナーズ島で開催されたのですが、1920年代のファッションに身を包み、当時のジャズを聴きながら、踊ったりピクニックをしたりするものです。入場料は$15です。
アメリカ人はこういう仮装系のイベントが大好きです。日本では仮装パーティーなんて、そうないものなので、雰囲気を楽しみに出かけてみました。

ところで、1920年代のアメリカは第一次世界大戦後、経済面で大繁栄を遂げ、大量生産・大量消費の生活様式が確立した時代でした。この時代は「狂騒の20年代」と言われていて、第一次世界大戦の工業特需と、大戦が終了したため、大量の帰還兵による消費と大量生産の開始、経済政策、自動車特需の発展により、各都市が発展し、「アメリカが世界一の水準」と言われていました。ラジオの普及が大衆文化を形成し、人々の娯楽として、ジャズ文化も花開きました。しかし、1929年にウォール街の暴落がこのバブル時代の終わりを告げることになります。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_23572281.jpgさて、この時の女性のファッションは「フラッパー」と呼ばれており、衿と袖のないタンクスタイルの肩周りに、バストやウエストを強調しないゆったりしたストレートシルエット、ローウエスト、ミニ丈のワンピース・ドレスに、ボブカットヘアーに、リップは赤というスタイルでした。
ちょうど右の写真のようなイメージです。

そして開催場所となった、ガバナーズ島は私は初めて行ったのですが、マンハッタンから無料のフェリーで5分の場所にあります。位置関係はこんな感じです。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_002865.png
ここはかつて軍用基地として機能していて、一般客には閉ざされてきていました。しかし、2003年に連邦政府がニューヨーク州にこの島の一部を売却し、現在は残る軍用施設以外は一般客に開放されています。

フェリーに乗って、ガバナーズ島に行きます。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0365156.jpg


さてさて、前置きは長くなりましたが、ここからイベントの様子です。
イベント会場には数々のベンダーがお店を出していて、アクセサリーなどを販売しています。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0344646.jpgフラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0353127.jpg

このイベントのスポンサーはSt.Germainなので、カクテルを振舞ってくれます。
私たちは1杯ずつ飲みました。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0442419.jpg
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0453897.jpg
St. Germainは私のニューヨーク生活を語る、重要なワードの1つと言っても過言ではないくらいで、家では欠かさずこのリキュールを置いています。フランスのエルダーフラワーから作られた、フルーティーなリキュールで、これをソーダとスパークリングワインで割って、家にあるフルーツとレモンを添えるだけで、立派なカクテルが出来上がります。

こちらはSt. GermainのHPです。現在は日本では販売されていないそうです。これは日本人女性には大変受ける味なので、いつか日本でも販売されることを祈っています・・・!
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0474469.png


会場はこんな感じです。Jazzコンサートの舞台周辺が一番賑わっていました。クラブみたいです。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0491193.jpg

フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0493373.jpg
仮装してきている人たちです。かわいいですよね。本当にお似合いです053.gif
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_0564923.png
そして私たちのフォト。快晴の中、音楽とお酒を楽しみました。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_15668.png

6時にガバナーズ島をあとにして、次に向かったのがIreneのフィアンセ、Kevinが経営するワインショップです。2人は遠い遠い親戚同士なのですが、ニューヨークの地主一家なので大家族で色々なお店やマンションを所有しています。
今日はグラマシーの中心にあるKevinのお店に行ってきました。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_110564.jpg

そして、Kevinが私たちのためにワインを出してくれて、さらに親戚がフィラデルフィアで魚市場を経営しているそうで、そこで作られた自家製のスモークサーモンを出してくれて、私たち3人はワインショップでワイン会を開いてしまうのでした。
フラッパー文化体験とワインパーティー_d0235123_111377.jpg

結局Kevinと私たち3人で3本開けて、ワインショップの閉店とともに、帰宅したのでした。

長い長い、とても楽しい1日でした。

# by kanagourmet | 2012-08-20 01:18